皆さまは、政治の役割はどんなところにあるとお考えでしょう。イラクへの派兵問題、失われた年金問題、道路特定財源の問題など次々と現れる課題の解決に取り組むこと。もちろん、これらは人々の耳目を集める重要な政治課題です。一方で、百年の計と言いますが、その場その場の問題解決に際し、いっそう根本へと目を向け、個別の解決策に方向性を与えるビジョンを描くこと。そして皆さまに伝え、関心を生み出し、議論の成熟へと導いていくことも政治の重要な役割です。ここでは、普段、あまりお話することのない理念の部分からゆっくりと考えていきたいと思います。
◆社会の変化と個人主義への偏り
1955年以降、自民党の長期にわたる政権維持によって硬直化した政治体制の改革が急務とされ、民主党の掲げる「政権選択を可能にする二大政党制」への理解も次第に浸透してきたように思います。
しかし、それはあくまで政治の枠組みの問題です。より根本的には「何を選択するのか」、国民の暮らしの変化・価値意識の変容を踏まえ、将来を見据えた内実あるビジョンとそれを実現する政策群こそが重要なことは言うまでもありません。
55年当時にあった社会主義国家は崩壊し、自由主義経済圏は拡大、自由主義に対する信頼は「議論の必要が感じられない」レベルにまで達しました。国民の暮らしを見ても当時とは比べものにならない経済的な豊かさを享受してきました。結果は様々ですが、良い意味でも悪い意味でも個人主義化の傾向が顕著になったことは一つの大きな特徴でしょう。
個人を大切にし、ひとりひとりが自己実現を十分に図ることのできる社会が重要であることは言うまでもありませんが、自己実現という言葉の意味は広がり、公共の場というよりも私的な空間で、物を生み出すよりも消費することに強い関心を持ち、趣味や娯楽など自分なりの楽しみを見いだすことも自己実現と呼ばれるようになってきました。
やがて急速に広まったインターネットや携帯電話は友人・知人とのつながりを簡単に生み出す便利な道具となりましたが、つながりの「質」について問われることはなかったように思うのです。「公共」に対する意識、すなわち「公共心」は決定的に衰えました。
◆家族の絆、地域の絆の新たな再生
そうした人々の変化に直面し、私自身の政治活動の根本にはあえて「絆」という価値観をおこうと考えています。「家族の絆、地域の絆」。周りを取り囲む人々との結びつきを大切にする社会。その中で「個」が育まれていく社会。むろん束縛を感じることもあるかもしれません。しかし、自由は、自由であればあるほど素晴らしいというものではありません。個人の尊厳と公共心には適切なバランスが求められるのです。
ゆとり教育によって学力は低下したかという点、議論がありますが、大学生の学力水準については教育現場を含め危ぶむ声が広がっているようです。きっかけは、「トップレベルの大学の学生の十人のうち二人が小学校の分数計算ができない」という調査結果をもとにした1999年発行の「分数が出来ない大学生」という本でしょう。しかし、皆さん、ゆとり教育を止め週に数学の授業が1、2時間増えればそんな状況が変わると本当にお思いでしょうか。私には授業時間数よりも、学ぶ意欲、それを支える社会の、家族の、本人の価値意識こそが重要だと思えるのです。
「家族の絆、地域の絆」という言葉は、単なるスローガンではなく、ここから様々な政策の方向性を導くことができます。一つの価値・社会モデルを示した言葉だからです。逆に日本の政治はこれまで、こうした基本的な価値意識についての議論を避けてきたように思います。小泉政権の施策の根底には当初から、効率を重視し格差社会を志向する社会モデルがありましたが、そのことには触れずさしあたっての経済対策に絞ってアピールすることで高い支持率を維持しながら改革を進めました。上手と言えば上手な政権運営でしたが、言わずに切り抜けるのではなく、賛否両論を受けながら、国民の皆さんに理解をいただき、その上で選択してもらうことが、充実した真の二大政党制の実現につながるはずです。